忘れられない過去は、これからの未来のために大切なこと

東日本大震災を経験し
この世の地獄を見た感じがして
度重なる地震に怯え
途方に暮れた11年前。

震災からの学びは沢山ありました。
普通に過ごせることが
どれだけ幸せなことなのか。

美味しいご飯を食べて
綺麗な洋服を着れて
お風呂に入れて
お手洗いにいけること。
不自由のない暮らしをしている
今が
とても
とても幸せなことだってこと。

東日本大震災は、2011年3月11日14時46分頃に発生。三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする地震でした。マグニチュード(M)は、1952年のカムチャッカ地震と同じ9.0。これは、日本国内観測史上最大規模、アメリカ地質調査所(USGS)の情報によれば1900年以降、世界でも4番目の規模の地震でした被害状況等については、まだ行方不明者も多く、全容は把握されていません。緊急災害対策本部資料によると、震災から3ヶ月を超えた6月20日時点で、死者約1万5千人、行方不明者約7千5百人、負傷者約5千4百人。また、12万5千人近くの方々が避難生活を送っています。

内閣府 防災情報ページより引用
目次

東日本大震災を経て


東日本大震災の日。
それは息子の卒業式の日。
大きくなった我が子の
晴れ姿を見て涙を流し
「おめでとう。今夜はお祝いだね」
って、食料の買い出しに
行っていたときの出来事でした。

その時は
ショッピングモールの2階。
急に起こった突然の地鳴りと
信じられないほどの揺れ。
ショッピングモールが
崩壊してしまうんじゃないか
というほどの揺れでした。

次々と倒れる商品や棚や看板。
辺りは電気が消えて
避難灯とほこりと非常口の看板。
あちこちから
沢山の悲鳴が聞こえました。
立っていられないほどの揺れと
この世の終わりかと思う光景が
目の前にありました。

一緒に来ていたはずの
娘と娘の友達。
ゲームセンターに行くというので
わたしは食料品売り場に
向かう途中のことだったのです。

張り裂けんばかりの声で
娘と娘の友達を探すけれど
ほこりが舞い非常灯の灯りのみ。
薄暗くて隣にいた人の顔も認識ずらい。

多くの人が
非常口から順番に避難している。

頭が真っ白。
手が震え身体が震え
それでも
必死に娘と娘の友達を探す。
人の波に押されながら
右にも左にも行けず
ただ流されて非常口に向かう。

とにかく冷静にならないと。
大きく深呼吸をした。

非常口から出たところは
車を停めていた場所だった。
屋内駐車場だったため
建物と敷地の間に亀裂が入り
大きな段差ができてしまい
出ることができない車もあった。
サイドブレーキを
かけてない車たちは
大きな地震の揺れで動き
車が出せない状況にあった。

それでもみんなの助け合いで
一台ずつなんとか出すことができた。
車はとりあえず安全な場所に置き
早く娘たちを探し出さないと。
どんなに不安なことか。
どんなに怯えているだろうか。
そればかりが脳裏に浮かんだ。

ひたすら叫んで娘たちを探す。
どれだけ叫んだか
どれだけ走ったか分からない。

そこにある空は
真っ赤な空と
チラホラ舞う雪。
三月だというのに
空までがおかしい。

走りに走って
大勢の中にたたずむ
知り合いの
店員A子ちゃんを見つけた。
そこに娘たちはいた。
A子ちゃんが守ってくれていたんだよね。
有難さと感謝の気持ちが溢れて
涙が止まらなかった。

いつまでも忘れない

東日本大震災の話は
いままで話すことが
できませんでした。
こうやって話すだけでも
涙がこみ上げてきます。

もっともっと
辛い思いした方々は沢山います。
あのときの出来事は
決して忘れることはないし
忘れては
いけないことだと思っています。

人の温かさと
普通に暮らせることのありがたさ
たまに
忘れてしまいそうなときがあるけど
ふと我に返って立ち止まります。

途方に暮れたあの日。
死に物狂いで探した我が子。
夜中もそして何日も止まぬ地震の恐怖。

津波のことを知ったのは
暗闇の中で聞くラジオからだった。
次の日避難して向かった実家では
大きな病院の近くとあって
ありがたいことに電気はついていた。
ふと、テレビを見た瞬間。
心臓が止まりそうだった。
涙が次から次へと溢れた。

何度も行った場所。
思い出のある場所たちが
全てが真っ黒な海にのまれていた。
津波というものは
見たことがなかったので愕然とした。
きっといまも
寒くて辛い思いをしている人たちがいる。
怯えてばかりじゃいれない。
強くならないと。

大地震の次の日から
兄・元旦那・従兄弟たち
男性陣は救助と支援のため
被災地に向かいました。
どうかどうか
みんな無事でいてほしい。
ずっとずっと願ってました。

大きい小さい関係なく
地震がなるたびに
異常なくらい怯えてしまうのは
あの経験を積んだからでしょう。

災害から学んだこと

あのとき大変だった生活必需品。
いまはひとつ多めに備えています。
いつなんどきも対応できるようにと。

あの頃の経験があったからこそ
地震の多い日本だからこそ
断捨離も避難用品も備えることで
ちょっとの安心が
大きな安心に変わるときが
あるかもしれません。

そして
なにより落ち着くこと。
家族とも改めて
いざという時どうするか
話をすることが大切かもしれません。

いまも戦争だったり
震災の被害に遭われている方たちが
いることでしょう。

あのとき・・・
東日本大震災のときを忘れずに
これからも
どうか
どうか
平和な世の中と
平穏な毎日が続きますように。
祈るばかりです。


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この記事を書いた人

「かこぷブログ」管理人かこぷと申します。アラフィフシングル女子。人生はいばらの道。それでもまた夢に向かって歩きだしています!よろしくお願いします!

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